【大坊棟札】問題。「日蓮正宗史の研究」著者・高橋 粛道(平成十四年十一月二十日 第一刷発行)より転記。 【大坊棟札】 【―顕正会の説に対して―】 私は、当論文を書くころ妙観講発行の『暁鐘』も、顕正会発行の『冨士』(月刊誌)も購読していなかったが、ある信徒が両誌を持参してくれたので、妙観講と顕正会とが戒壇論をめぐって論争していることを知った。顕正会の論調は相変わらず少しの新鮮味もないが、その中で「大坊棟札」について両者の主張が記されていたので、その点だけゆっくり読んでみた。私も宗史に興味をもつ一人だからである。 まず、問題となった「大坊棟札」であるが、偽作説が妙観講であり、真作説が顕正会である。この棟札の表には日興上人筆(偽書説あり)とされる本尊が復刻されている。そして、裏書には (裏書) 右大坊棟札 駿河国富士上野郷之内 大石ケ原一宇 本 尊 也 草創以地名号大石寺領主南条修理 太夫平時光法号大行地所被寄附之 火不能焼水不能漂 本門戒壇之霊場日興日目等代々加修理丑とら之勤行 無怠慢可待廣宣流布国主被立此法時者 富国於天母原三堂並六万坊可為造営者也 自正應二年至三年成功 日興日目 正應四年三月十二日 と彫刻されている。 この棟札を、最初に偽書と断定されたのは、堀日亨上人である。 堀上人は御所持のノート(通称・『堀ノート』という)の中に、 棟札 正應四年己丑三月十二日 此小本尊ヲ模刻(薄肉彫)シテ薄キ松板二裏二御家流ノ稍豊ナル風ニテ薬研彫ニセ ルモ文句ハ全ク棟札ノ例ニアラス又表面ノ本尊モ略之本尊式ナルノミニテ又棟札ノ意味ナシ唯頭ヲヘニ切リテ縁ヲ ツケタルコトノミ棟札ラシ石田博士モ予ト同意見ナリ徳川時代ノモノ。 と記されている。つまり、形だけは棟札に似ているけれども、本尊も記される文句も、棟札の意味がなく、江戸時代の偽作であると、石田博士の意見を採り上げつつ断定されている。ただ、棟札には正応四年とだけあるのに、堀上人は「己丑」の干支を入れられているが、正応四年の干支は「辛卯」である。 次に大坊棟札を偽書と断定されたのは、御先師日達上人である。やや長文であるが引用する。 それから、その次に、大石寺棟札の裏書きというのが出てきます。これは正応四年となってます。表は御本尊様で、これは論ずることはやめます。 「本門戒壇之霊場日興日目等代々加修理丑寅之勤行無怠慢可持広宣流布、国主被立此法時者当国於天母原三堂並六万坊可為造営者也」と、こうありますね。 「自正応二年至三年成功 正応四年三月十二日」と、こうなっている。 そのこっちに、また、「駿河国富士上野郷内大石原一宇草創以地名号大石寺 領主南条修理太夫平時光法号大行之寄附也」こうなってますね。 これが一番古い書物に出てるということに言われるんですが、これもちょっと考えなければいけない。 これは第一、丑寅勤行について、「日興跡条々事」に、「大石の寺は御堂と云い墓所と云い日目之れを管領し、修理を加え勤行を致し広宣流布を持つべきなり」(法主全書一巻九六)とありますね。 それと同じようだけれど非常にイメージが違ってます。「日興跡条々事」は元徳二年でしょう。これよりも約四十年も前にこれがあったということになる。おかしいです。とにかくまた、書く字もおかしいですね。この日興という字もおかしいでしょ。 日興上人は『日 皿+八』《注・興の文字表記出来ないので》とこうお書きになっているんですね。ところが、これにはもう一つ多い、一つ二つ三つ四つ五つ『日 皿+八』《注・皿の立てが五本》とこうなっている。 そういうところがおかしいし、また『日興日目等』という、この文句が少しおかしいですね。 もしお書きになるなら、自分が書くんだから、『日目』でいいんですよ。今の譲状と同じことです。「御堂と云い墓所と云い日日之れを管領し」だから、「日目等代々加修理」というのなら分かるけれども、自分の名前を『日興日目』と書く必要はない。 それから丑寅ですね。昔は丑寅とはっきり書いたものです。これには『丑とら』と書いてある。これが徳川時代の特長。字もよく見れば、お家流といいますか、非常に字がなだらかに書かれている。 日興上人の字とは見られない。だから、それからいくと、この『当国』これもどうも信用できない。 もし、大石寺が正応三年十月十三日に完成したのなら、その時に棟札を入れるわけでしょ。 それから半年も後の正応四年三月十二目、これも、ちょっとおかしくなってきますね。 それより、もっとおかしいのはこれです。「駿河国富士上野郷内大石原一宇草創以地名号大石寺」これはいいです。 「領主南条修理太夫」南条さんが修理太夫という名称をいつもらったのか、おかしいですね。 それから「法号大行」これは法号となっている。もし、この時にそういう法号があったならば、南条さんはこの時三十三歳、三十三歳で法号大行なんていただくのはちょっと早すぎますね。 「寄附也」これもおかしい。鎌倉時代なら「寄進」と使うわけですね。「寄進状」とか「寄進」、これは「寄附」となっている。この点も変です。 今、この修理太夫ということは、よく調べれば、それは大昔からあるんですね。修理太夫という名称は、群書類従に出てきます。群書類従に寛平年間(寛平四年、八九二)ですから、この時代から四百年、五百年も前に、在原友子が修理太夫をもらっている。 この時代では、南条さんの主人筋の北条さん、北条執権第十五代の北条貞顕ですら修理権太夫であったのですね。 それを家来すじの南条さんが修理太夫というのはおかしい話です。修理というのはお城を修繕する役、太夫はその長官。だから、まあ、この時分にはただ名称だけになったかも知れないけれど、それにしても、その長官という名前をもらうことはおかしいし、また、現に、その時代の北条時政の子・時房ですら修理権太夫となっている。『権』の字がついておる。そういう点からいっても、これは後から出来たものと思うのである。御伝土代ですら南条次郎左衛門時光、左衛門です。修理太夫という名前じゃない。父は南条七郎兵衛ということになってますね。 その南条左衛門時光という名前は、延慶年間でも南条左衛門時光となっていて、大行などとは言っておりません。 南条修理太夫という名前はどこから出たかというと、私がちょっと調べたところが、大石寺明綿誌に出てきてますね。大石寺明細誌はずっと新しいですね。文政六年、日量上人がお書きになった「大石寺明細誌」に「同二年己丑春 南条七郎修理太夫平時光の請に応じて駿州富士郡上野郷に移る、今の下之坊なり」(富要五巻三二一)と、これは大石寺明細誌です。 さきほどの明細誌はいつかという問題はこれがいちばん古いんでしょ。日量上人の文政六年 (一八二三)だから、ずっと後のこと、徳川時代でもずっと後、今から百五十年前くらいにできております。だから、それからみると、あるいはもう少し古いというかも知れないけれど、とにかく徳川中期以後にこれが出来たと思います。 だから、ここにあるところの「天母原三堂並六万坊」という言葉は昔からあるもんじゃない。もっと後のものだということがわかります。 それから、法号大行という名前ですね。法号大行という名前はもっとずっと遅いですね。こんな正応四年の時分にはなかった。正和五牛に、初めて時光が大行といってます。 正和五年の南条さんの譲状に「沙弥大行」という名前が初めて出てきます。 だからずっとおそいことです。だから、この六万坊という話は昔のものではない、ということがわかるのであります。 その時は何条さんは五十八歳ですかね、正和の時は。少なくとも五十四歳か五十八歳です。 五十いくつかにならなければ自分の法号なんかもらうわけもないし、また自分でつけるわけもない。 それから、堀猊下もこれを論じておりました。私はこの文章から言いますけれど、堀猊下はこの字体から言っております。「この小本尊を模刻して薄き松板に裏に御家流のやや豊かなるふうにて薬研彫りにせるも文句は全く棟札の例にあらず。また、表面の本尊も略の本尊式なるのみにて、又棟札の意味なし、ただ頭を角に切りて縁をつけたることのみ棟札らし」、このお家流というのは、すなわち徳川時代という意味です。「石田博士も予と同意見なり」、 石田博士というのは石田茂作さんのことです。石田茂作博士も同意見だ、徳川時代のものと、こうはっきり書いております。だからこれは信用することはできないと。(日達上人全集第二輯五巻三二九) つまり要約すると、 一、丑寅勤行の記述が『日興跡条々事』より約四十年前にあるのはおかしい 二、興の字が日興上人正筆の字体と違う 三、日興日日等という文句はおかしい 四、「当国」も信用できない 五、棟札が大石寺完成より約半年後の年代になっているのはおかしい 六、時光殿の修理太夫の名称はおかしい 七、鎌倉時代の「寄附」という用語はおかしい ハ、大行の法号も時期が早すぎる 九、堀上人の説を支持する これらに対し顕正会は、棟札中に「天母原」の用語があるため、何としてでも真作説を主張したいところである。 興尊御在世中に天母原戒壇建立説があった、と立てたいからである。 それでは、先に『冨士』の堀上人への反論から取り上げてみる。 この「御家流」というのは、江戸時代に始まったものではなく、実に尊円親王(一二九八―一三五六)を起源としているのである。 まさに日興上人の時代から歴として存在していたのであるとて、顕正会は、御家流が江戸時代に始まるのでなく、すでに日興上人の在世中にあったから、棟札が御家流でしたためられていても少しも不思議でない、と主張している。 顕正会が棟札の書体を御家流と認めているかどうか知らないが、たしかに御家流は鎌倉時代の尊円親王を鼻祖としている。尊円は一二九八―一三五六年までの人であり、日興上人は一二四六―一三三三までで、日興上人は尊円より約半世紀・五十年前に出生されている。 『御伝土代』によれば日興上人は、 幼少にして駿州四十九院寺に上り修学あり。同国富士山のふもと須どの庄・良覚美作阿闇梨に謁して外典の奥義を 極め、須津の庄の地頭・冷泉中将に謁して歌道を極め給う。(歴全一―二六五) とあり、おそらく岩本実相寺に移られる間(宗祖との岩本値遇が正嘉二年・興尊十三才)まで、幼少時分、四十九院の宿院から須津の庄にいた冷泉中将隆茂から歌道・書道等を留学された。 もっとも弘安元年(三十三才の御時)に日興上人が四十九院の供僧として申状を奉上されているので、もう少し長い間、四十九院にいて修学期に学んだものと考えられる。 いずれにしても、尊円が生まれるずっと以前のことである。 この冷泉家は、藤原定家の流れを伝えた和歌師範の家系であり、書風も定家流であったと想像される。ゆえに、日興上人はけっして御家流の影響を受けているとはいえない。 顕正会は、堀上人が棚札を評して、「御家流のやや豊かなる」と記してる点を、「日興上人の天賦の名筆の書風をかく表現された」ものとし、「引用の御文を見る限り、少しも『偽作』などとは云っておられない」と述べているが、「偽作」という意味が少しもわかってないらしい。 ここで偽作とは、日興上人の名に仮託して後の人が作ったことをいうのである。書体が御家流なら、偽作ということになるのである。 また、これに類して『冨士』は、 また"御家流に似ている"というが、大坊棟札の裏書の御文字のどこが、どのように御家流に似ているのか、その 根拠を明示せよ。さらにまた『石田博士云云』とのことについて、いったい堀上人が石田茂作という博士を、いつ、 どこに呼んできて、何をどういう具合に鑑定させたのか、そして石田博士はその時どういう鑑定結果を云ったのか、 そのことも明確にしてもらいたい。 と述べている。 徳川家康は御家流をとくに好み、奨励して全国津々浦々にまで流行させたが、この棟札の書風が御家流なのである。 市販されている『書道全書』と十分に比較していただきたい。御家流には草書と違う「くずし」のあることも知るべき である。その上で逆に、大坊棟札のどの字が日興上人の書体と酷似しているのかを指摘願いたい。現存する日興上人の 書状・書写本と棟札とを一見すればその違いは一目瞭然であろう。 古文書には真偽鑑定ということがある。堀上人のように、何十年という長い間、古文書に接していると、長年の経験 で真偽の判別ができてくるし、そのものの成立年代もおおよそ判断がつくものである。考古学者が、発見した一片の土 器や恐竜の牙から、その年代を推定して誤りが認めがたいのは、日夜の想像を絶する学問研究があってできるものであ る。そのように、一生を古文書解読に尽くされた堀上人の眼力をもって判断したことであり、それを、また援証として 石田博士の説を記しておかれたのである。生涯を学問に費やした学者の説に対し、古筆に造詣深くない者が、大上段に 批判めいたことを表現するのはおこがましい、といわれても仕方ない。大坊棟札を示して、これを中世文書だと断定る者は顕正会だけであろう。 また、『冨士』には、 しかも重大な点であるが、なぜ堀上人ほどの碩学が干支を間違えるのか。(中略)そのような大事な干支を、史学者である堀上人がどうして間違われようか。 これも釈明せよ。といい、さらに堀上人の文書の出典を求めている。 つまり早い話が、堀上人の解説文は偽作であり信用できない、といいたいのであろう。 しかし、堀ノートの堀上人の筆跡を偽作というのは、御真蹟の存在する『本尊抄』を大聖人以外の筆者による論述というに等しい、それくらい常識なのである。 現在、堀上人の多くの手沢本が富士学林図書館に蔵されているが、堀上人は御自分で執筆された本は、必ず目を通され、誤字、誤植等を筆等で訂正されている。その中に、干支の訂正も一つ二つに限らない。訂正箇所が多すぎる時は、他の著者と同様に、正誤表を別刷りで添付することもあっただろう。 堀上人の著書は、当時の読者数からしても、再版はほとんどないようである。けれども後世の者が再版することを、堀上人が予想されたかどうかはわからないが、完全な形で残してくださった。もし私達が、堀上人は大学匠であるから間違えるはずがないと考えて、字句の訂正もせず再版すれば、それこそ堀上人の心に反するものとなろう。 堀上人は、将来、学問が進んで、自分の研究に誤りがあれば訂正してほしい、と常々言われていたというし、また、堀上人御自身、御先師のお書き物に対して、その精神をもって宗史・宗学全般を研究されたことも事実である。 「硯学」で「史学者である堀上人がどうして間違えるのか、これも釈明せよ」といって、微細なる事を取り出して完璧性を言うなら、堀上人が大坊棟札を偽作と断定されたことも、「硯学」で「史学者」の御高説として承諾すべきであろう。 また、堀上人が本尊の形式・裏面の文字の内容についても疑義を挿まれているのに、それについての反論が見られないことはどうしたことか。ぜひ反証を試みてもらいたい。 さて、次に日達上人への批判箇所についてである。 日達上人が、「寄附」という用語を「鎌倉時代に「寄附」という用語が通常使用されていたことは『大日本史料』等を見ればすぐわかる。と記し、さらに、日興上人の『実相寺衆徒愁状』に「水田六町寄附せらる」とあることからも「寄附」の語が当時使用されていた、と反論している。 顕正会は、日達上人のこれ以外の論証については、 そのすべては例によってズサン極まる推量にすぎない。と悪口し、その一々についてはいずれくわしく破折する。 と大見栄を張ったが、いまだに少しの反論もみられない。まもなく二年目を迎えるというのに、反論を予告しておきながらできないでいる。 日達上人が「寄附」でなく「寄進」と言われたのは、宗祖滅後の南条家等の富士門流が一様に「寄進」という用語を使っているから、そういう意味で言われたと考える。日達上人は、鎌倉時代の日本語もしくは漢語に「寄附」という語がなかった、と断定されたわけではなく、富士門流の当時の使用例を問題にしたのである。そう言えば理解できるであろう。 さて、次に『冨士』では、 いま一つ付言すれば、もし大坊棟札が偽作だというなら、大石寺の歴史的な落慶の口がわからなくなってしまうが、 それでもよいのか。『富士年表』にも、正応三年の項に『一〇・一二 大石寺建立(大坊棟札)』とあるように、記 念すべき大石寺建立の日を特定する資料は大坊棟札しかないのである。これを偽作とは何事であろうか。 と、記している。ずいぶんの知ったかぶりには呆れて物も言えない。大石寺の創建を正応三年十月十二日とする古記録・古文書類はたくさんある。 けっして、大坊棟札をたった一つの拠り所として十月十二日説を建てているわけでない。 それよりも、大坊棟札のどこに十月十二日と書いてあるのか。書いていないのに、なぜ「落慶の日がわからなくなってしまう」というのか。ただ棟札の「正応二年より三年に至りて功成る」の部分を用いて出典としただけである。 現に堀上人は『富士日興上人詳伝』、の中の「大石寺創立」《注・二四二頁》の項目の中で、「大坊棟札」を「正史料」にも「間接史料」にも紹介されず、全く歯牙に懸けられていない。 今回新版の富士年表は誤解をなくすためにも大石寺創建の出典を『大石寺文書=石文』に改めたので、この辺の論争に関しては終止符を打ってもらいたい。 最後に、顕正会は「古い棟札の焼失によって造立しなおした」と主張するかもしれないが、その説は認められない。 今のところ、顕正会はこのことに触れていないから、そのことを主張した時に反論しよう。それまでお預けとする。 なお文中の『冨士』とは平成元年の三月号と五月号とである。 |